恩師に学んだこと

大学時代のゼミの先生とは、長いお付き合いはできませんでした。
というのも、私が3年生の12月に、50歳の若さで癌で亡くなられたからです。
ゼミ幹事だったので、代表でお葬式に参列したのを覚えています。
 
先生は、お父様がW大の総長をされたほどの学者一家の出。
ご本人も計量経済学の第一人者として将来を嘱望される学者でした。
短い期間ではありますが、ゼミの中で先生から学んだことがあります。
それは
「本当に理解できるまで立ち止まって徹底して考える、分かったフリをして先に進まない」
ということです。 
私たちのゼミで、よく起きていたことは、「中断」です。
ゼミは、学生がミクロ経済学のテキストを解説する形で進行します。
その解説を先生が止めて、考え込んでしまうのです。
その「中断」が1時間以上続くこともしょっちゅうでした。
正直私たち学生には、先生がどこに引っかかっているのかすら分からないのですが、とにかくその間静かに待ちます。
 
ところで、ミクロ経済学というのは、今考えても「どこまで役に立つんだろう」と思ってしまいます。
リンゴを1個手放す代わりにバナナを何本もらえば満足するか、というようなことを、式やグラフにします。
この場合、リンゴとバナナの個数をそれぞれXYにすれば、満足度合を平面のグラフで表現できます。
これにミカンが加わるとZが加わり、立体的な三次元のグラフで満足度合を表現することになります。
三次元に生きる私たちにとって、ここまでは何とかイメージできます。
問題はここにブドウが加わった時です。
バナナ1個とリンゴ1個を手放す代わりに、ミカン何個とブドウ何個がほしいか。
こうなると、四次元の世界ですから、私たちにはそのグラフをイメージすることはできません。

 

しかし、先生は出来るのです。
頭の中に四次元グラフがあり、それぞれの個数を動かすことが出来る(ようです)。
そんな非常に頭の良い先生が、学生の前でカッコつけることなく、1時間以上も考え込んでしまう。
分からないこと、腑に落ちないことを絶対置き去りにしない。
その姿勢がハンパないのです。

一つの物事を自分の中に取り込もうとして、それがスッと「理解の棚」に収まらなかった時、例の「中断」が起きます。
取り込もうとする物に問題があるのか、自分の棚に問題があるのか、
その煩悶の時間が「中断」なんですね。
 
「分からない」と言うことは、恥ずかしいことではない。
「分からない」と言える人は、本物の自信をもっている。
先生の姿勢を見て感じたことは、今でも教訓として自分の中に残っています。

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