本当の「価値」を見誤らないために大切なこと

価値を見誤らないために

物事の本当の価値は、それが無くなったときに分かります。

典型的な例は、親の存在。
反抗期、口うるさい母親に、
「うるさい、くそババア! はよ死ねー!」
とひどい言葉を浴びせた息子も、実際母親が亡くなると
「おかあちゃーん!」
大声で泣き、孝行できなかったことを悔やむ。
「健康」もそう、「友人関係」もそう。
失うまでなかなかその本当の価値を認識することができません、残念ながら。

ですから、何かの価値を測るとき、その必要性を見定めるときは、それが無くなったときのことを想像することが有効です。
自分の周りの人やモノ・コトについて、一つ一つそれが「無くなって二度と戻ってこなかったら」と想像してみる。
すると、それらの本当の価値(自分にとっての価値)が見えてきます。
そこで価値を感じないものは捨ててしまえばよいでしょう。
そして残ったものを見回すと、思っていた以上に自分が価値のあるものに囲まれて生きていることに気づきます。
それは自分の人生の豊かさに気づくことでもあります。

仕事も同じでしょう。
気に食わない上司や、デキの悪い部下。
普段不満に感じている相手について、彼らがいなくなったらと想像してみる。
すると、彼らがいなければ自分の仕事も成り立たないこと、案外自分が助けてもらっていることに気づいたりします。
毎日提出するのが面倒な業務日誌や、中身が薄く役に立ちそうもない会議。
ムダに感じる業務日誌や会議について、それらが無くなったらと想像してみる。
すると、それらが無ければいざ自分が情報発信したいときには手段がなく困ってしまうことに気づく。
同時に業務日誌や会議を最初に導入した人の思いにも気づく。

ではそんな気づきの後、自分はそれら「上司」「部下」「業務日誌」「会議」に対してどう向き合うべきか。
それを考えるところから、仕事が豊かなものになっていきます。

農産品の統一ブランドに違和感

農産品の統一ブランドに違和感

今日の日経新聞地域面に
「県産和牛を統一ブランド化、知名度向上のため」
という見出しがありました。
記事によれば、(山口)県内には多くの和牛ブランドがあり、県外での知名度が低いことから、統一ブランドをつくって県外での販売拡大を目指す、とのこと。

この記事を読んで、何かモヤモヤした気持ちになりました。
なんとなく趣旨はわかるのですが、消費者目線で言えば、知名度が低いものを集めてつくったブランド牛が魅力的に感じれないからです。
県内で魅力的に感じない統一ブランド牛が、県外で目論むほど売れるのか。
そもそも県外ってどこ? 隣の広島? 福岡? それとも東京?
広島や福岡には自前の県産牛があるでしょうし、東京には「神戸ビーフ」「松阪牛」はじめ全国からすでに有名なブランド牛が押し寄せてるし。

モヤモヤするのにはもう一つ理由があります。
それは山口県には、小規模だけど注目すべき和牛ブランドがいくつもあるからです。
日本の肉用牛の祖先と言われる、萩市見島の純粋和種「見島牛(みしまうし)」
「見島牛」とオランダ産ホルスタインの交配種「見蘭牛(けんらんぎゅう)」
全国肉用牛枝肉共励会で二度の日本一に輝いた「阿知須牛(あじすぎゅう)」
和牛オリンピックで入賞常連の岩国ファーム「高森和牛」
などなど。
これらの希少ブランド牛は大量に流通させることができないので、JAはじめ流通業者にとっては魅力に乏しいかもしれません。
しかし、消費者にとっては「神戸ビーフ」「松阪牛」に劣らない個性に魅力を感じます。
一度食べてみたい、と。

人口減少の趨勢の中で、JAは生き残りをかけて合併し効率化を進めています。
それに呼応してか、みかんや牛乳など農産品ブランドも合併する方に進んでいるように見えます。
しかしそれは、地元にある美味しいブランドが、その他大勢と混ぜられて薄まっているようで、悲しい気持ちになってしまいます。
これからすべきはむしろ逆、「ブランドの細分化」ではないでしょうか。
県内に大きな統一ブランドをつくるのではなく、希少な魅力的ブランドをたくさんつくる。
その方が、それを育てた農家の考え方や地理的背景など「美味しさの理由」が消費者に届きやすいはずです。
またそれは、今後強く求められる「食品のトレーサビリティ」とも相性の良い戦略です。
小さくて魅力的なブランド農産品を、どうやって効率的にたくさん流通させるか、それを考えるのがこれからの流通業ではないでしょうか。

なぜ今、富士山噴火?

富士山噴火,コロナウイルス

昨日3月31日、政府の中央防災会議の作業部会は、富士山の大規模噴火に伴う首都圏への影響をとりまとめ、発表しました。
最悪の場合、近隣7都県の鉄道が止まり、首都圏で大規模な交通マヒが起きる。
停電などによって市民生活・経済活動は深刻な影響を受ける、とのこと。

このニュースを見て、違和感を覚えた方も多いのではないでしょうか。
なぜ今、「富士山噴火」の発表?

新型コロナウイルスの感染拡大は勢いを増し、市民生活は大きく制限され、芸能界やスポーツ界にも感染が広がったことで、私たち一人ひとりの危機感も高まってきました。
飲食店、サービス業、旅行業のみならず、車業界も操業停止に追い込まれ、3月期末を悲壮感いっぱいで越した経営者も多いでしょう。
それでも「命あっての物種」
まずは感染拡大を最小限にするためにオリンピックを筆頭に殆どのイベントは延期・中止になりました。
個人レベルでもほとんどのイベントを延期しています。

こんな状況で市民が求める情報は
① 正確な情報
② 最新の(緊急性のある)情報
③ 明るい情報
ではないでしょうか。

「富士山噴火」の情報は、どれにも当たりません。
それが有益な情報だとしても、みんなが不安を抱いている今、発表する必要があったのでしょうか。
作業部会の発表の期限がこの期末だったとしても、少し延期しても良かったのではないでしょうか。
コロナウイルス対策の旗振り役の政府が、市民の気持ちに寄り添えていないのではないか。
そう感じてしまうニュースでした。

今こそ高学歴を生かす時代

今こそ高学歴を生かす時代

今日、世界陸上ドーハ大会で、日本人2個目の金メダルが出ました。
男子20㎞競歩の山西利和選手、50㎞競歩の鈴木雄介選手に続いて日本に金メダルをもたらしてくれました。

山西選手は聞けば京都大学工学部物理工学科卒の23歳とのこと。
今日のテレビ中継中には、何度も解説者・コメンテーターから、山西選手が数ある就職の選択肢を捨てて、この競歩を選んだとのコメントがありました。
みんなが羨む優良企業への就職を捨てて、大好きな競歩を選んだ、と。

そうでしょうか。
山西選手は何も捨ててないでしょう。
大学を卒業するとき競歩を選んだからといって、優良企業への就職ができなくなったわけではありません
例えば、来年東京オリンピックが終わって、山西選手が競技を引退して、超優良企業に就職希望を出すとします。
その時、会社の担当者が、
「あなたは確かに京都大学卒ではあるけれど、新卒ではないので当社の採用の対象にはなりません」
と言うでしょうか。

同じような例。
ある東大生が在学中にベンチャー企業を立ち上げたとします。
5年間懸命に頑張ったけど結果を出すことができず、やむなく廃業、企業に就職希望を出したとします。
その時、会社の担当者は、
「あなたは確かに東京大学卒ではあるけれど、新卒ではないし、しかも一度事業を失敗しているので、当社の採用の対象にはなりません」
というでしょうか。

絶対言いません。
京大卒業後、世界陸上に出場した人材を逃すわけありません。
東大卒業後、ベンチャーにチャレンジして失敗経験を積んだ人材を逃すわけありません。
これは東大・京大卒だからこそ認められる付加価値なのです。
他の大学ではまだ認められないかも知れません。
そして、そういう独自のキャリアを積む東大卒・京大卒の人たちは、頭がいいので、それが付加価値になることくらい自ら分かっているでしょう。

従来は、東大を出れば即官僚、京大を出れば即研究者だった優秀な人材が、卒業後何かにチャレンジする。
それをやり切った後、もしくは失敗した後でも就職はできる。
だから思いっきりチャレンジできる。
これは日本にとっても素晴らしいことではないでしょうか。
必ず将来の日本の可能性の一つになるはずです。

「引きこもり」と最低賃金

最近ニュースで頻繁に、「引きこもり」という言葉を耳にします。
「引きこもり」の男性が、通学途中の小学生を襲った。
「引きこもり」の息子に繰り返し家庭内暴力を受けた親が、息子を殺害した。
また、「引きこもり」そのものが、「8050問題」と称する大きな社会問題として採り上げられたり。

その昔、「引きこもり」は「不登校」とほぼ同義語でした。
しかし今や、「引きこもり」は中高年がメインゾーンになっているのだとか。
10代の子たちの「引きこもり」は学校に行かないことでした。
とすると、中高年の「引きこもり」は、仕事に就かないこと、会社に行かないこと、になります。
逆に言えば、「引きこもり」から立ち直るというのは、仕事に就く、会社に行く、ということでしょう。

そう考えると、この大きな社会問題を小さくしていくためには、日本中の会社の協力が不可欠です。
「引きこもり」の人たちに幅広く働く機会を用意する、幅広い働き方を許容するという協力です。
通勤でも在宅でも可。
1ヶ月のうち20日出勤でも5日出勤でも可。
1日あたり8時間労働でも3時間労働でも可。
専門的な仕事もあれば、単純作業の仕事もあり。

ところで、そういう雇用にも会社は最低賃金を支払わなければならないのでしょうか。
最低賃金を巡る今の趨勢は、全国一斉に引上げ、全国一律1000円以上にする、といった感じです。
この最低賃金の引上げに関するニュースを見るたびに、モヤモヤした気持ちになります。

何とか「引きこもり」から脱して仕事に就きたい、切実にそう思う本人やその家族にとって、最低賃金なんてどうでもいいでしょう。
例えば、今の自分でも出来そうな時給500円の仕事を見つけて、何年かぶりにドキドキしながら仕事に向かう40代の息子
その70代の両親は、出勤する息子を涙ながらに見送るでしょう。
その涙は、時給が安いから泣いているのではありません。

「引きこもり」を引き合いに出して、最低賃金の引き上げにケチをつけているわけではありません。
「引きこもり」に限らず、主婦、高齢者、障碍者など今働いていない人たちを社会に引っ張り出すために必要なのは、最低賃金の引き上げではなく、幅広い雇用形態だと思うのです。
賃金を上げることは働く人にとって間違いなく良いことです。
しかし最低賃金を上げることは、それによってハードルが上がり、雇用の機会・形態が減るなら、良いことではありません。